2006 05/31 更新分

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「公害・環境資料館」オープン

◆あおぞら財団、「公害・環境資料館」オープン記念シンポ開催◆

淡路JEC理事長が基調講演で“資料保存の困難性をネットワークで打開しよう”と提唱

活動の一つに公害問題資料の保存やネットワーク化を掲げてきた「あおぞら財団」(公害地域再生センター)は10周年を機に「西淀川・公害と環境資料館」をオープン、2006年3月18日午後2時から、大阪市・西淀川区の「エルモ西淀川」でオープン記念シンポジウムを開催しました。日本環境会議(JEC)の淡路剛久理事長が「環境再生の時代に公害経験から学ぶ」と題する基調講演を行いました。このオープン記念シンポジウムは全国公害患者の会連合会、全国公害弁護団連絡会議、日本環境会議が共催、環境省、大阪府などが後援しています。
写真:各地から集まった賛同者に主催者あいさつする森脇君雄さん(壇上)

冒頭、主催者を代表してあおぞら財団の森脇君雄理事長が「諸先生方に相談しながら、ここ3年構想を練ってきました。やろうとふんぎったのは被害者の人たちが受けた苦しみを他の人たちや若い世代がいつでも見られるように、きちっと残すことが必要なんだという思いに至ったからです」とあいさつ。続いて、平田悦雄環境省保健部企画課調査官から来賓あいさつがあり、芝村篤樹桃山学院教授の趣旨説明、林美帆あおぞら財団研究員の資料館発足の経過報告の後、淡路剛久JEC理事長が「環境再生の時代に公害経験から学ぶ」と題して、概要次のような基調講演を行いました。

写真1:来賓あいさつする平田悦雄さん(壇上)
写真2:桃山学院大の芝村篤樹さんが趣旨説明を行った
写真3:PPを使って資料館の概要を説明する財団研究員の林美帆さん


◆淡路JEC理事長「基調講演」◆

終わっていない公害問題。環境再生に時代時代のデータ必須

きょう私に与えられた演題はシンポジウムと同じ「環境再生の時代に公害経験から学ぶ」というものですが、その目的は公害・環境問題関係の資料をどう保存するか、どう活用するかというところにあり、オープンした「西淀川・公害環境資料館」の意義を確認することにあると考えます。

初めに、テーマに盛り込まれた「環境再生の時代」の意味を考えてみたいと思います。一部にはもう“公害の時代”は終わったという見方があります。そういうことを含めて「環境再生の時代」という言葉が使われていると思いますが、私は、この言葉にはもう少し積極的な意味があると考えています。「環境再生」とは一体なんだろう? きょうの聴衆の方々の中には初めて聞かれた方もいるのではないでしょうか。しかし、多くの出席者にとっては多分聞き慣れた言葉だろうと思います。なぜかといいますと、この言葉はそもそも西淀川の公害訴訟弁護団が最初に使われたのではないかと思うからです。

公害・環境問題資料の活用ということだけを考えれば「環境再生」という言葉は不要なのかもしれませんが、環境再生を通じて地域再生を図ろうということは公害を経験した地域の課題でもありますし、公害を越えていこうという意気込みでもありますし、かつ、希望でもあるというように受け止めるべきではないかと思うわけです。

ところで、私ども日本環境会議(JEC)が環境再生というテーマ、課題を受けまして、その研究を開始したのが2000年の頃でした。その節には、西淀川の被害者、弁護団など多くの方々からご支援をいただき、改めて感謝申し上げます。

その研究の一つの区切りとしまして、東京大学出版会から『地域再生の環境学』というタイトルで5月に出版する作業を進めています。 そこでは、現場から問題を受けた研究者が理論的にどう展開し、それを現場に返していくかの議論をさせていただいていますので、出版の暁にはぜひ読んでいただきたいと思っております。  【注=5月19日出版】

写真:公害資料は益々重要性を帯びると強調した淡路剛久さん

 

さて、現在の環境政策の課題が国際的にはもちろん、国内、なかんずく行政レベル、地域の市民・住民運動のレベルなどいろいろな段階、いろいろなレベルで持続可能な社会=サスティナブル・ソサイエティーの構築にあるということではほぼ共通の了解になっています。しかし、実際の我が国の公害・環境問題がサスティナブルでないやり方で推移してきたということはいまさらくどくどと述べる必要はありません。1950年代、60年代までに蓄積されてきた公害、生活環境の悪化というものは60年代に至り公害問題として一挙に噴出してきたわけです。同じ頃、自然破壊も進みました。そして、都市部あるいは自然と接する空間で、我々が欲するアメニティが悪化の一途をたどり、さらには90年代以降、地球環境の破壊という危機に私たちはいま遭遇しているわけです。

それに対して、公害・環境問題の政策というものはどうだったのかというと、公害問題が噴出した1950年代、60年代に始まったのが公害防止です。それが90年代に入り地球環境問題が発生するようになって、あらゆるとことで環境の耐えられる容量を超えてしまうということが明らかになってきて、環境への負荷を減らす、負荷の低減ということがいわれるようになってきました。これが第1の環境政策であります。さらに、80年代の中頃から廃棄物問題が深刻な問題になりました。事業ゴミが大変増えてきて、もちろん生活ゴミもそうですが、これに対してドイツで始まった循環型社会というスローガンが我が国にも持ち込まれ、循環型社会の形成ということで第2の環境政策として根付いてきているわけです。

そして、我々はそれらを踏まえつつ、環境の回復と再生ということを第3の環境政策としてあらゆるレベルでこれを展開する必要があるということを主張しているわけであります。

これは、西淀川や川崎や尼崎や倉敷などいろいろな現場で現実の運動として起こっている、そういう種類の問題提起を環境政策としてまとめ上げたときに、それはまさに第3の環境政策として必要なものだと考えているからです。

では、なぜなのかということについては、きょうは時間に限りがあるので長々と述べることはできませんが、先ほど申し上げた『地域再生の環境学』の中でいろいろ議論を展開していますので、ぜひ見ていただければと思いますが、結論だけを申し上げれば「環境再生の時代」でいっているのは公害のない、あるいは少なくなった時代だということを意味するのなら、それはハッピーではありますが、実際にはそうではないわけです。

つまり、現実には日本社会は環境への負荷、マイナスの遺産を至る所に残しているということであります。これを環境破壊、公害の被害のストックというふうに呼ぶと、そうした蓄積された環境破壊、負の遺産というものが存在していることであります。したがって、環境への負担を少なくして、負担がかかったところへ循環させるということだけでは日本の環境問題は解決しないわけです。蓄積されたストックとしての公害・環境被害をどう解決していくかという問題に我々は直面しているということで、これから地方分権化が進めばおそらく国レベル、地方レベルでの環境政策は必ずしも成功するとは限らないわけです。これまでもそうだったし、これから先も環境負荷、公害・環境被害はどんどん残されていく可能性もあります。市場というものも特別なコントロールがない限り市場はなにを引き起こすか分かりません。未解決なまま60年代から残され、今になって浮上してきたアスベスト問題がその典型的なケースといえるでしょう。

だからこそ、環境再生という目標を置かなければならないわけで、その目標の第一義的なものは被害者の完全救済ということですし、地域再生の運動ということでありますし、それを政策的にいえば第三の環境政策ということができます。つまり、持続可能な社会というのは、現実を直視するならば、過去から未来にわたるこのような公害・環境被害のストックというものを直視して、それを視野に入れた政策展開によってしか実現され得ないと思うのです。

次に、ストックとしての膨大な公害・環境被害を残してしまった公害とはなんだということに話しを移したいと思いますが、その前に、私たちは昨年11月16、17日に中国・上海の華東政法学院という大学のキャンパスで「公害被害者救済ワークショップ」という3回目の日中交流会議に参加しました。会議の途中で、吉林省で起きた化学工場の爆発事故によって松花江が汚染されたというニュースが伝えられました。残念ながら情報隠しがあって、実際に事故が起きてから1週間以上遅れてそのことがわかったり、下流のハルピンで市民の水への悪影響の懸念などが伝えられ、ワークショップは一時緊張が走りました。そして、そのワークショップで、中国では数多くの公害被害例があることが報告されました。

松花江の事例を振り返ってみますと、いまや中国で起こっているとされている様々な公害被害事例というものは多かれ少なかれ同様の、あるいはもっと深刻な公害被害というものを我々は日本の中で1950年代、60年、70年代に経験してきたわけです。70年代頃からは公害に加えて大きすぎる公共事業、民間事業による環境破壊というものを経験してきたわけです。その原因を作ったのはいうまでもなく経済産業政策として急速な経済成長を目指した新産業都市建設、工業化計画、何次にもわたった全国総合計画などであり、産業政策としてはもっぱら利益を追求した企業活動というものがあったわけです。

50−60年代から70年代にかけての日本の社会は工業化と都市化と大量消費化が急速に進んだわけです。もし、歴史に「if」を語ることが許されとするならば、一体、これらは防げなかったのだろうか? ということが問題になります。経済成長が一定規模に達し、GDP(国内総生産)がある一定水準に達すると、その国は有効な公害防止投資をするようになり、公害防止ができるようになるといわれています。日本、韓国、中国はその例だという議論がはやった時期がありました。それによると、60−70年代の日本、80−90年代の韓国であり、いま中国がその時期にあたるというわけです。

こういう議論あるいは仮説に従うならば、公害というものは避けられないことになってしまいます。しかし、持続可能な社会の構築に向かうためには、東アジア、東南アジア、西南アジアのどこでもがみなこういうことを経験し、豊かになり、そして公害防止というわけにはいかないのです。

現実に公害被害を分析していけば国や地方がいかなる政策をとるべきであったか、企業はどうすべきであったかは具体的に明らかになるはずです。これは、まさに公害裁判が具体的なデータや資料、事実関係に基いて一つずつ明らかにしてきたわけです。そして、判決においては、四日市の判決では実質上過失論がいわれたわけですし、水俣病の関西訴訟では1959年の時点で対策が取れたはずだといわれたわけです。しかし現実には人の健康と生活を守り、環境を汚染するための法規制は常に後追いというのが実態でした。4大公害事件、大阪空港公害事件、新幹線公害事件や森永ヒ素ミルク事件やカネミ油症事件などの食品公害事件、そして薬害事件ではサリドマイド事件、スモン事件などなど多くの公害被害、人身被害、食品・薬品被害を相次いで経験したということは他の先進国にはないのではないでしょうか。

こうした50、60年代から70年代の状況の中で被害者の権利保護、住民の生活の安全と生活環境の汚染、環境の保護へ社会を大きく動かす原動力となったのはなんでしょうか? それは、まさに被害者の運動、訴訟、開発地域であれば住民運動、環境訴訟、そしてそれを支えた弁護士の訴訟活動と法的支援、それからそれをさらに取り囲む支援者の活動でありました。

とりわけ、注目すべきは4大公害訴訟の展開というのは日本社会における法的訴訟の位置づけを大きく変えさせる要因になったと思います。

いま、司法改革がいわれていますが、第2の時期だと思っていまして、第1の時期は社会から、市民から、被害者から大きな転換が起こったのが60年代から70年代にかけての動きだと、私は思っています。そして、2000年に入って起こっているこの司法改革は制度的改革で、要するに上からの改革だと考えています。

4大公害訴訟までの日本の社会というのは、かつて法学者の川島武宜博士が「日本人は法嫌い、訴訟嫌いという面をもっている」と指摘したように、そういう国民性を背景に権力をもった為政者が紛争を避けさせる、つまり被害を権利と義務の問題とすることを妨げるような制度を数々準備しました。調停制度はまさにそういう形で利用されました。調停という公式の制度によらない場合でも示談という形でほとんどの紛争でのは被害はある意味で抑え込まれました。その典型的な例が戦前では足尾鉱毒事件であり、戦後でいえば水俣病の1959年の見舞金契約でした。

これに対し、60年代、70年代に大きく意識を変えさせることになったのが、一つは飛躍的に増えた自動車事故の訴訟です。数において日本人の権利に対する考え方を変えさせました。そしてもう一つは公害訴訟です。新潟水俣病から始まって次々に4大公害訴訟が起こった。そのつど、全国紙の1面トップで報道されています。このように社会的関心の大きさということにおいて、4大公害訴訟は時代を変えさせたという点で大きな意義をもち、その後も大きな訴訟が続々と続くわけです。そして、全国的規模で大きな開発計画に反対する住民の反対運動や訴訟が展開されていくわけです。

こういう遺産を引き継いでいきながら、こんどは70年代、80年代の大規模大気汚染訴訟が展開され、それぞれが大きな貢献をしたわけです。大気汚染訴訟で、それまでに得られなかった大きな飛躍を遂げたのがまさに環境再生ということです。つまり、被害者は自分の個別被害の回復のみを求めているわけでなく、疲弊した地域の再生というものを図るための代表になる。そのための費用を環境を破壊したものから取るということです。その延長戦上にあるものが資料館のオープンだと理解しています。

公害関係資料というものは、なにもないところから事実を探求し、資料を作り、証人を呼び、その結果、資料・データがだんだん作られていった。この一つ一つの努力は大変なものですが、実はそういう資料以外の資料も多々あるわけです。それらの中には貴重な事実も隠されている。しかし、往々にして散逸してしまっているケースが多い。さらに、地方で反開発とか反公害の住民運動が起こって、その地域の事実の掘り起こしがなされ、かつてはこうだったということを証明するデータであるのに、ほとんどは個人の所蔵であったり、散逸してしまうということがあちこちで起こっています。

公害問題は決して終わっていません。それだけに、どこにこういう資料やデータがあるということがネット化され、活かされなければなりません。そういう意味で、いまオープンした「西淀川・公害と環境資料館」の機能や役割に大いに期待して結びといたします。

 



◆問題提起と意見交換◆

休憩の後、佐賀朝・桃山学院大学教授の司会により、近藤忠孝さん(全国公害弁護団連絡会議代表委員)、澤井余志郎さん(四日市公害を記録する会代表)、塚田眞弘さん(新潟水俣病資料館館長)、高木勲寛さん(イタイイタイ病対策協議会会長)、大国正美さん(神戸深江生活文化史料館副館長)の5人の人たちによるそれぞれの立場からの問題提起が行われ、会場からの質問に答えるなど意見交換が行われました。

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写真1:佐賀朝さん(左端)の司会で5人の人たち(右から)から「問題提起」が行われた
写真2:近藤忠孝さん
写真3:澤井余志郎さん
写真4:塚田眞弘さん
写真5:高木勲寛さん
写真6:大国正美さん

そして、小田康徳館長(大阪電気通信大学教授)から館の名称を募集した結果、全国から1403件の応募があり、厳選な審査の結果、栃木県の男性のEcological Museum(英語名)とミューズの神(女神)をかけ合わせ、環境を見守る資料館であることを示す「エコ・ミューズ」に決定したと発表され、披露されました。

最後に財団を代表して村松昭夫専務理事が閉会のあいさつをして、午後5時閉会しました。

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写真1:公募した結果、資料館の名称は「エコ・ミューズ」に決まったと発表する館長の小田康徳さん(右端)
写真2:閉会のあいさつをする村松昭夫さん
                  =写真はいずれも06年3月18日、大阪市・西淀川区の「エルモ西淀川」で

 

 


◆資料館オープン記念懇親会◆

会場をあおぞら財団内に移して、午後6時ごろから資料館のお披露目が行われました。出席者は整備されたおびただしい資料を目にして、改めて資料館の存在感を認識。懇親会では多くの人たちが「貴重な存在。より多くの人たちに有効利用されることが望ましい」と期待をこめたあいさつがありました。

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写真1:看板を披露する小田康徳館長(右)と森脇君雄財団理事長
写真2:資料棚からとりだして閲覧する出席者たち
               =写真はいずれも06年3月18日、あおぞら財団で

*(財)公害地域再生センター(あおぞら財団)
〒555-0013大阪市西淀川区千舟1-1-1 あおぞらビル4F
TEL:06-6475-8885/FAX:06-6478-5885
Email: webmaster@aozora.or.jp URL: http://www.aozora.or.jp/
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