日本環境会議―略称をJECと言っていますが―の事務局長をここ10年務めています。東アジア環境情報発伝所の若い人たちとはこれまであまりつながりがなかったのですが、今回知り合いになれて嬉しく思っています。
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さて、今回の出版物『環境共同体としての日中韓』はいまから思うと大変タイムリーなタイトルであったと思いますが、これに落ち着くにはこんな経過がありました。実は、去年の11月に上海で「日中韓環境被害救済に関するワークショップ」が開催されました。執筆者の一人で、のちほど報告される相川泰さんもその有力メンバーの一人なんですが、彼を通じて当初は「環境運命共同体……」という案が寄せられましたが、どうも我々のスタンスからすると「運命共同体」というのは馴染まないのではないか、片方で日本の政府は政治・経済などで「東アジア共同体」というネーミングを使っているのはご承知の通りで、我々としてはそれらに対抗すると言うか匹敵するネーミングとしては「環境共同体」がよいのではないか―というアドバイスをさせていただきました。きょうは、その環境共同体の背景となっている課題などについてお話させていただこうと思います。
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「日中韓環境共同体」というコンセプトは今後益々現実のものになると話す寺西さん =いずれも2006年3月10日、東京・青山の環境パートナーシップで |
いま、我々はなぜアジアに注目しているか、注目することに意味があるのでしょうか?
ご承知のように、1980年代の中頃から世界的に地球環境の危機ということが非常に叫ばれ、それにともない地球環境保全ということが世界共通の課題とされました。80年代前半、日本では中曽根政権が登場しまして、それ以前にアメリカではレーガン政権が、その前にイギリスでサッチャー政権が成立し、彼らが進めようとした80年代以降から今日までその流れはつながっているのですが、いわゆる新自由主義的な路線で、イギリスでは福祉国家としての様々な社会政策的な措置は切り捨て、アメリカではレーガノミックスと言って市場経済の自由をさらにフリーにして、その後さらにグローバリゼーション化したことはご存知だと思います。
そして日本はそれに対応して中曽根内閣は規制緩和と民営化という扉を開いたわけです。そして、80年代、日本は都市開発やリゾート開発やその他の規制緩和に伴って、開発ブームとなり、そのバブルがはじけて90年代に至って破綻し、それ以後今日まで十数年、いわゆる構造不況、バブル崩壊後、「失われた十年」と言われているわけです。この日本の状況を尻目に、アジア各国は80年代後半から90年代にかけてものすごい経済成長を見せているわけです。
そういうアジアの急速な経済成長の反面、80年代後半にはヨーロッパを中心に地球環境の危機とか、地球環境の保全、そしてそれを受けてサスティナブルな開発だとか発展だとかの考え方が前面に出てきて、いわばヨーロッパが環境の時代を迎えているのに、アジアは経済の時代を迎えて大きな経済発展を遂げ、一方、日本はその狭間でどっちに向いていったかというと、戦後政治の総決算とか、70年代以降2度のオイルショックで経済成長率がガクンと落ちましたから80年代は“夢よ、もう一度”ということであえいでいたという感じでした。
そういう状況の中でアジアに注目しなければならないのではないか?―と思い始めたことを記憶しています。その思いをもっていたところ、89年春頃でした。私たちの先輩である宮本憲一教授から「これからはアジアに行かなければダメだ」と言われました。日本は公害問題をまだ抱えていながらゴルフブームやリゾート開発ラッシュ、東京湾の乱開発などいろいろなことが起こっていましたが、日本の問題を解くためにもアジアへ行かなければダメだというアドバイスを受け、いささか遅きに失していましたが、90年の3月に初めて台湾から韓国へとアジアの地を踏みました。
今も鮮明に記憶していますが、そのとき直感したことは「これら台湾・韓国などのいわゆるNIES(新興工業経済地域)の中では日本についで著しい経済発展を遂げていたわけですが、この動きが必ず中国に伝わり、ASEANに行き、広くインドなどに波及しよう。そして、今後、地球全体の環境問題を左右するのはアジアの動向である。アジアがこれから10年、20年どういう方向に向かって動くかが大きなカギだ」ということでした。
そして、92年に地球環境の危機とか保全とか言っているけど、それはどういう背景で起こっているのか、どういう構図になっているのかをまとめるチャンスを得ました(東洋経済新報社『地球環境問題の政治経済学』)。そこでは、地球環境問題は、「越境型汚染」、「公害輸出」、「貿易と環境」、「貧困と環境」、「地球共有資産」という5つの問題群が複合的して深刻化している。そして、これらを個別に、あるいは複合的に解きほごし、解決していくには、これらの絡み合っている問題を個別的な特徴を捉えながら、からまっている糸をどう解きほぐし、全体的な解決を図ることが重要なんだということを主張しました。実は、今日、この問題がもっとも凝縮的に現れているのがアジアです。
そういう中で、アジア・太平洋NGO会議―APNECと略していますが―というのが91年にバンコクで開かれ、昨年11月、ネパールのカトマンズで7回目の会合を持ちましたが、このAPNECの取り組みを通じて、ささやかながら分かってきたことを研究者の立場からまとめ、情報を共有していこうという試みとして、この間に『アジア環境白書』シリーズを編集・刊行してきました。
さて、本論に入りますが、アジアには2つの顔があると思います。
1つは、この10年〜15年の状況である「輝かしく躍進する東アジア」という顔です。これは、いわば光があたっている部分です。しかし、光と影は表裏一体です。影の部分は何か? そこに我々は目を向けていかなければいけない。即ち、輝かしい反面、その裏面ではイギリスの産業革命からスタートした近代化・工業化の歴史、日本の戦後史と比べても経験したことのないような、非常にやっかいで難しい問題をいくつも抱え込んでいる東アジアという顔が浮かび上がってきます。このことがアジアを見る一つの視点ではないでしょうか。
どうも日本の政治も経済も、アジアの光の面だけに目が向かっています。しかし、そこだけに目を向けていると、裏に隠れている問題が見えなくなり、失敗します。ただ、それにはアジアの国や地域が急成長したパターンの特徴もしっかり見ておかなければいけません。私は大きく分けて以下のような3つの特徴があると思います。
1.特異な工業化(「圧縮型工業化」)と産業構造の劇的かつ歪な変貌
2.アジア的農村社会の構造的な疲弊化と増幅された「爆発的都市化」
3.急進的に形成されてきたアジア的都市型社会にみる凄まじい勢いでの大量消費型生活様式の普及、資源浪費的な大量消費的な大量廃棄物型社会の出現
これらが複合的に現れており、ゆえに問題解決は容易ではありません。私の中にもすっきりした解決策ありません。みなさんも考えてください。
また、日本の経験に照らしてみると、次のような3つのタイプの問題群があると思います。
1つは、足尾鉱毒事件、水俣病事件、四日市公害などなど例をあげればキリがないほどですが、日本がこれまでに経験したことの後追い型の問題群。
2つ目は、日本の経験を超えた問題がアジアでは次々と起こっているということです。1984年に起きたインドのポバールにおける農薬工場の爆発事故、越境型の黄砂や酸性雨被害の問題などなどです。
そして3つ目は、これが日本の一番重要なテーマだと思っているのですが、日本サイドの国際的な責任と役割が直接的・間接的に問われている一連の問題群です。これは、戦後起こったことだけでなく、台湾や中国本土で戦前にやったことが今日なお、後遺症を残しているわけです。その上、最近では有害な廃棄物が大量に中国へ“輸出”されているというケースすらあります。これらは、輸出している側の日本の責任を問わなければ問題の解決には至りません。
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